ショートショート
【 新任教官】

 四の月の半ばのこと。
 クライとラフティが勤める士官学校に、新しい教官が来るとの噂が立った。
「校長からは、何も話がないが……まさかまた、ただの噂ってことはないだろうなあ……」
 昼休み、クライの隣の席で幾分、うんざりした顔でそんなことを呟いたのは、同じく教官を務めるライアンだった。
 彼らがいるのは、教官室の一画である。
 室内には彼らの他にも何人か、自分の席で弁当を広げている者や、コンピューター端末機を相手に何事か作業をしている者、カーヴァーのカップを片手に同僚と話し込んでいる者などがいた。
 昼食は、弁当を持って来たり買って来たり、あるいは外に食べに行くのも自由なので、教官として勤める彼らはみな、思い思いに昼休みを過ごす。
 クライは、昨日ウリエルが多く作り過ぎたマッシュポテトと、冷蔵庫にあった有り合わせの食材をパンに挟んで、その日はサンドイッチの手作り弁当を持参していた。
「さすがに、それはないんじゃないのか? タイラーとルイスが辞めて、もう半年近くなるんだ。実際、そろそろ新任が来てもいいころだろう」
 口に入れた一切れを咀嚼して、彼はライアンのぼやきに答える。
「俺もそう思うが……先月も、結局ただの噂で終わったじゃないか」
 それへライアンは、溜息をついて返した。その手には、外で買って来たハンバーガーが握られている。
 クライがフラナガンで住み始め、士官学校の教官として勤め始めて、二年が過ぎている。このところ、ここの教官は人手不足だ。半年前、先程クライが口にした老齢の教官二人が定年退職したあと、後任の教官が訪れる気配は少しもない。
 この士官学校は公立で、教官の多くは元はフラナガンの軍人である。むろん、中にはクライたちのように他国で戦闘訓練を積んだり、軍人や傭兵としての経験を積んだ者もいるが、半分以上は聖騎士団に属していた者たちだった。
 ただ、聖騎士団から士官学校の教官になるのに特別な決まりはなく、当人がそれを望む場合、二人以上の上官の推薦があれば、面接と実技試験を経て採用されるのが常だった。むろん、怪我などで退役を余儀なくされた者が、教官として勤める場合もある。
 なので、後任がなかなか来ないのは、単純にそれを望む者がいないという理由だろうと推測された。
 とはいえ、二人が辞めた穴は大きい。
 ここは学校としての規模はそれほど大きくはなかったが、卒業生は聖騎士団の幹部候補生と捕らえられている側面もあり、指導は基礎はもちろん、実地で役立つことを中心に行っていた。そのため、たった二人とはいえ、教官の数が減ったことは、クライたち残った教官らの負担をずいぶんと増やすことにもつながったのだ。
 ライアンの言葉に、クライは小さく肩をすくめる。
「まあな」
 たしかに先月、新しい教官が来るという噂が流れ、だが結局それは実現せずじまいに終わったことを思えば、この同僚の言うことも一理あるかもしれない、という気はしなくもなかったのだ。

 だがそれは、彼らの杞憂に終わった。
 翌日の朝、始業前の朝礼の場で、校長から新任教官が二人、午後には訪れ、明日から授業を受け持ってもらうことになるとの話があったのである。
「今度は、ただの噂じゃなかったようだな」
 朝礼のあと、自分の席で授業の用意をしているライアンにクライが声をかけると、相手も破顔してうなずいた。
「ああ。……とりあえずこれで、俺の肩こりもなくなりそうだ」
「なるほど、そういうことか」
 苦笑して告げる同僚に、クライはようやく相手のぼやきの意図を理解する。
 タイラーとルイスの二人が辞めたあと、タイラーが受け持ちだったクラスの副担任だったライアンは担任に昇格し、この半年、一人でそのクラスを受け持っていたのだ。しかもそのせいで、苦手なデスクワークが増え、肩こりがひどくなったと、よく言っていた。
 校長は、新任教官の一人を彼の下につけるつもりのようだったし、なるほどこれでその負担も少しは減ることになるだろう。
「新人が、使える奴ならいいな」
 笑って軽く肩を叩くと、クライも自分の授業を行うため、教官室をあとにした。

 その日の午後。
 昼休みが終わってすぐの講義を終えて、クライは教官室へと向かっていた。その背に、声をかける者がいる。ただ、最初は自分のことだと思わなかった。というのも。
「ボス!」
 相手は、そう呼びかけて来たからだ。
 ここでの彼は、単に名前で呼ばれるか「カシアス教官」としかつめらしく呼ばれるかのどちらかでしかない。そもそも、ここでの彼は平の教官にすぎないのだ。彼が「ボス」と呼ばれていたのは、《神の塔》でのこと――《アサシン》の部下たちの間でのことだった。
 だが、何度も呼ばれて、ようやくそれが自分のことだと気づき、クライはふり返る。そして一瞬、目を見張り、言葉を失った。目の前に立っているのが、とてもよく知っている男だったからだ。もっとも彼は、その男が、死んだと思っていた。
「ボス、お久しぶりです」
 そんな彼に男は、満面の笑みで挨拶する。
「ボブ……ボブ・スレイ……」
 思わず相手の名を呟くクライに、男はうれしそうに笑った。
「俺のこと、覚えててくれたんですかい。……もしかして、忘れられてたらどうしようかと思ってたが、さすがはボスだ」
「忘れるわけが、ないだろう……」
 言って、クライはようやく相手に歩み寄った。
「おまえの……おまえたちのおかげで、俺は今、ここにこうしていられるんだ」
 そのとおりだった。
 三年前、《アサシン》としての任務を遂行できなかったクライは、ライラによって投獄され、その意志を奪う薬を投与されるのをただ待つばかりの状況にあった。そんな彼を獄舎から救い出し、《神の塔》から脱出させてくれたのが、当時彼の副官だったこの男、ボブ・スレイだったのだ。
 むろん、計画に参加したのはボブ一人ではなかったが、彼が率先して動き、仲間を募って全てを実行に移したのだった。
 ただ、彼らがクライを脱走させたことは、すぐにライラの知るところとなり、彼らは捕らわれ《アサシン》の隊員としての資格も剥奪されていた。そしてクライは、ライラの性格からして彼らを生かしておくことはないだろうと考え、その死を疑っていなかったのだ。
「あの時は、本当にすまなかった。だが……おまえたち、殺されたわけではなかったのか?」
「ええ」
 ボブは少しだけ複雑な表情でうなずくと、ここではなんなので……と彼を喫煙所へと誘った。たしかに、廊下で込み入った話をするわけにはいかないだろうと気づき、クライもうなずく。
 廊下の突き当たりにあるドアをくぐると、そこは小さなバルコニーになっていた。煙草を愛飲する教官たちのための、喫煙所である。幸い、そこには誰もいなかった。
「捕らわれた時には、俺たちもこりゃあ命はないだろうと、観念したんですがね。……しばらくしたら、俺たちはラボに移されて、実験体として使われることが伝えられやした」
 ボブが、あたりを見回してから、口を開く。
「最初はそのとおりで、俺も体中あちこちデータを取られたり、何かよくわからない薬を飲まされたりしましたよ。だが、途中で俺たちには、とんとお呼びがかからなくなっちまったんです」
 彼が言うには、元《アサシン》でラボへ回されたのは、クライ救出に関わった者ばかりではなく、クライが《アサシン》局長を務めていたおりに、その側近だった者たちもいたのだそうだ。そして、彼らのうちの半数は、実際になんらかの実験に被験者として使われ、半ば廃人と化して最終的には死を迎えたらしい。
 だが、ボブを含む半数の者たちは、最初こそ身体データを取られたり、開発中の薬らしきものを飲まされたりしたものの、捕らわれて三月ほどが過ぎるうちに、閉じ込められたまま放置状態になったのだ。
「――途中からは、食い物さえもらえなくなって、日付どころか夜だか昼なんだかもわからなくなりやした。実際、あのまま放置された状態が続けば、俺たちは全員飢え死にしてたと思います」
 言って、ボブは語り続ける。
 そんな彼らが助け出されたのは、ラボに移されてから四ヶ月後の十一の月のことだったという。
 その間、世界では各国がひそやかに同盟を結んでエテメナンキの解体をもくろみ、聖女ジブリールの復活と共に、ライラがその野望を打ち砕かれていた。
 つまり、ボブたちは、同盟軍の勝利によって行われた《神の塔》からの住人の一斉退去の際に、かろうじて生きながらえていたのを、救出されたのだった。
 もっとも、そのあとの一年間は、療養とリハビリに費やされた。
 いかに屈強な彼らとはいえ、死の寸前にまで追い詰められた肉体を元に戻すには、それなりの時間を必要としたのだ。その上、ラボで飲まされた開発中の薬の作用も少なからずあった。
「俺は比較的、体力が戻るのは、早かった方でしたがね。それでも、左手がバカになっちまってて、ある程度使えるようになるまで、一年半ほどかかりましたよ」
 ボブは笑って、話を締めくくった。
「……大変だったんだな。だが、生きていてくれて、よかった」
 クライは、改めて彼の顔を見やり、しみじみと返す。
「俺の方こそ、ボスの顔が見られて、うれしいですよ。……っていうか、ホッとしました」
 言って破顔すると、ボブは続けた。
「療養中に、世界の変化とボスたちの活躍については、何度も聞かされやしたがね。……いかにもらしい気がする反面、なんだか信じられなくて。それで、ずっとボスに会いたいって思ってたんです。そしたら、ちょうどいい話が舞い込んで来たもので……」
「ちょうどいいって……ここの、教官のことか」
「ええ」
 ボブは、問われてうなずく。
 彼ら、ラボから救出された元《アサシン》の面々の治療費は、全て新生エテメナンキが肩代わりした。だけでなく、ライラに捕らわれる以前に彼らの銀行口座にあった資産も、全て保証されることになり、おかげで彼らは療養に専念すると共に、元気になってもたちまち生活に困窮するようなことはなかったのである。
 とはいえ、保証された資産はけして、遊んでくらせるほどには多くない。生きるためには、仕事を探す必要があったが、さりとて荒事専門に生きて来た男が、たとえば会社勤めなどできるはずもない。
 どこかの軍隊に、傭兵として雇ってもらうしかないだろうと考えていた時、ここの教官をやらないかという話が舞い込んで来た。
 クライが、ラフティと共にフラナガンに移り住み、士官学校の教官をしていることは、人づてに聞いていたから、一緒に働けるならばと、承諾した。
「そんなわけで、これからよろしくお願いしますぜ。ボス」
 ボブが、笑って片手を差し出す。
「それはいいが、ボスはやめてくれ。俺はもう、そう呼ばれる身分じゃないし、おまえの上司でもない」
 その手を取りながら、クライは苦笑と共に返した。
「おっと、そうでしたね。……早いとこ、慣れるように、努力しますよ」
 ボブは笑って答えたものの、その目には「ボスはボスですから」と言いたげな光が宿っている。
 それに気づいて、クライはやれやれと肩をすくめながらも、再び苦笑した。
 バルコニーから臨む空は青く、近くの木々は緑に輝いている。それに気づいて、小さく目を細めながらクライは、新しい季節が運んで来た再会を、胸に噛み締めるのだった――。
【 花祭り】

 ――ユーリデ祭で、ピアノを弾くことになった。
 クライがラフティからそう聞かされたのは、祭の一週間前のことだった。
「つまり、人前で演奏するってことか。……大丈夫なのか?」
 クライは、思わず問うたものだ。
 ユーリデ祭は、ゲヘナ大陸の中南部で昔から行われている土俗の祭だった。三の月から四の月の間の満月の日に行われ、主に女の子の成長を祝って、その時期に盛りを迎えるユーリデの花を飾り、その実で作った酒を口にする。地方によっては、花嫁花婿を模した人形を飾る所もあり、俗に「花祭り」と言えば、このユーリデ祭のことを指すのだった。
 フラナガンでも、個人や地区で行う場合があり、ウィンド・ヒルでは毎年、住民の交流も兼ねてこの祭が行われている。
 ラフティが、古道具屋でみつけたピアノを弾くためにと、近くに住むピアニストに習いに行くようになって、まだ一年に満たない。自宅でときどき彼の弾くそれは、雨だれにも似て、ずいぶんとおぼつかないものだった。なのに、祭の場で弾くというのだ。クライの問いも、無理のないものだっただろう。
「大丈夫ですよ。今、祭に向けて、猛練習しているところですからね」
 ラフティは笑顔で答えたが、クライは少しだけ不安だった。
 ラフティはもとより器用な性質(たち)で、教えられれば案外なんでもこなす。料理にしてもそうだったし、一緒にくらし始めて、木の柵や椅子などが壊れたのを修繕したこともある。音楽そのものも、それなりに素養はあるようだ。だが、プロのピアニストに習っているわりには、上達していないように、クライには感じられるのだった。
 だが、ラフティ当人はそんなクライの心配をよそに、楽しそうだった。練習は仕事が終わったあと、ピアニストの家で行っており、職場から直接そちらへ行っているせいで、毎日帰りは遅い。
「本当のところ、どうなんだ? まともに弾けるのか」
 クライは一度、こっそりとアズラエルに訊いてみたことがある。が、彼も「さあな」と肩をすくめるばかりで、詳しいことは教えてくれなかった。

 やがて、一週間が過ぎた。
 ウィンド・ヒルのユーリデ祭は、この地域の中央に近い場所に建つルーフの寺院で行われることになっていた。ここは、ウィンド・ヒルの人々にとっては、集会所のような場所でもある。
 寺院の前の広場は、中央に立てたポールから四方に綱が張り渡され、色とりどりの旗とカンテラが吊されていて、それだけでもずいぶんと華やかな雰囲気だ。更に広場のあちこちには、白や紫の艶やかな花をつけるユーリデの木もいくつか植わっていて、人々の目を楽しませていた。
 広場にはむろん、食べ物や飲み物を扱う屋台もいくつか出ており、ユーリデの実の酒や、花を模した菓子などが、訪れる人々に無料で配られたりしていた。
 祭は、ウィンド・ヒルの住人たちの交流を目的としたものだが、むろん、他の地区の者の参加も制限されてはいない。
 というわけで、クライはカイエにも声をかけた。
 夕方、あたりが薄暗くなり、吊されたカンテラに灯りがともり始めるころ。
 クライはカイエとウリエル、アズラエルを伴って、広場へとやって来た。
「案外、賑やかなんだな」
 この祭に初めて訪れるカイエは、あたりを見回して目を見張る。
 その言葉どおり、親子連れをはじめとして、友人同士らしい若者の集団やカップルなどが、楽しげに談笑しながら続々と広場に入って来ていた。彼らは並んでいる屋台の売り物を品定めしたり、もらった酒や菓子に舌鼓を打ったりしている。
 クライたちも酒をもらい、それで喉を潤したあと、寺院の中央にある礼拝堂へと向かった。
 予定では日が落ちたあと、礼拝堂で演奏会が行われる。ラフティのピアノ演奏もその中の演目の一つで、彼は礼拝堂の奥の小部屋に、他の演奏者や歌い手らと共にいた。どうやらそこが、今夜の出演者らの控え室らしい。
「クライ、カイエも。来てくれたんですか」
 クライたち四人の姿に、ラフティは破顔した。
「ああ。考えてみれば、あなたの演奏をちゃんと聞いたことがなかったから、いい機会だと思ってな」
 カイエが笑って返す。
「それはそれは。ぜひ、楽しんで行って下さい」
 ラフティはいつもどおり、のんびりとした口調で返して、ゆったりと構えている。
 それを見やって、クライは小さく吐息をついた。
「本当に、大丈夫なのか?」
 室内を見回せば、中央に置いた長方形の机を囲む形で置かれた椅子に座して出番を待っている他の出演者らはどれも、どことなく緊張した面持ちで、おちつかなげに腰を椅子から浮かせたりまた座ったりといった動作を繰り返している者さえいる。
 ウィンド・ヒルは、芸術家たちの集まる地域だが、かといって住人の全てがそうではない。クライが今はもう画家ではなく、ラフティがピアノを習っているだけの素人でしかないのと同じように、芸術的なことが好きではあっても、それを仕事にはしていない住人もいる。今夜の演奏会に参加するのは、そうした人々なのだ。
 そんな中、ラフティはいかにも泰然自若として見える。が、だからといって、演奏を問題なくこなせるとは限らないことを、つきあいの長いクライは、理解していた。彼は、自信のないことであっても、常にゆったりと構え、いかにも自信ありげに見せるすべを心得ているだけなのだ。
 しかし、心配げなクライの問いに、ラフティは笑った。
「大丈夫ですよ。私が案外、本番に強いことは、あなただって知っているでしょうに」
「それはそうだが……」
 クライは言いさして、再び吐息をつく。

 そうこうするうち、完全に日が落ちて、演奏会の始まる刻限となった。
 クライたち四人は、小部屋を出て、礼拝堂の方へと向かう。
 さほど大きくはない礼拝堂は、すでに八割がた人で埋まっていた。
 幸い、クライたちは中程よりもう少し前に近い、比較的いい席を取ることができた。
 彼らが席に着いてほどなく、演奏会は始まった。
 礼拝堂の奥の祭壇は、舞台のように少し高くなっており、普段はその中央前寄りの位置に演壇が置かれて、ここの院長が説教や祈りを行うようになっている。が、今はその演壇が取り去られ、広々とした空間が広がるばかりだ。
 祭壇の奥の壁には、聖女ジブリールの歌う姿が色硝子で美しく描かれており、四隅の天井からは、カンテラがやわらかな光を舞台上に投げかけている。
 その光に照らされて、最初にそこに現れたのは、演奏会の司会を務める祭のスタッフの一人だった。
 彼が簡単な挨拶を終えて引っ込むと、最初の演奏者が現れた。親子らしい二人連れで、母親とおぼしい女性はバイオリンを手にしており、娘らしいもう一人の女性は何も持っていない。
 やがて一人がバイオリオンを弾き始めると、もう一人はそれに合わせて歌い始めた。
 さほど下手ではないものの、特別上手というわけでもない。
(……こんなもの、なのかな)
 それを聞きながら、クライは少しだけ安堵した。出演者のほとんどがこんなふうなら、ラフティが少々下手だったとしても、それほど心配することはないかもしれないと思ったのだ。
 だが、それが勘違いだったことを、クライはすぐに知ることとなった。
 演目が進むにつれて、プロに勝るとも劣らない演奏者が増え始めたからだ。
「おい……。本当に、あいつは大丈夫なのか?」
 思わず問うた彼に、アズラエルは笑った。
「さあな。それは、自分の目と耳でたしかめるしかなかろう。……ちなみに、俺の聞いた話では、今夜の出場者の何人かは、それを仕事にしてはいないというだけで、かなりの腕前を持つ者も多いらしいぞ」
「ですよね。……どの演奏も歌も、とてもすばらしいですもの」
 ウリエルが、今更ながらな感想を漏らす。
「大丈夫だ。こんな連中と一緒に出ることを決めたぐらいだ。きっと、ラフティも演奏に自信があるに違いないさ」
 慰め顔に言ったのは、カイエだった。
「それはそうかもしれないが……」
 クライは言って、また吐息をつく。
 そうこうするうち、いよいよラフティが舞台の上に姿を現した。
 中央には、グランドピアノが据えられており、彼は観客に一礼するとその前に腰を下ろした。
 一呼吸分間を置くと、広げた両手をピアノの鍵盤の上に置く。
 やがて、あたりにやわらかく、優しい調べが広がった。
 曲は、ユーリデの花にまつわる伝説を元にした恋歌で、誰もが一度は聞いたことがあるだろうものだ。本来は少し悲しげな曲だったが、彼の指が紡ぎ出すそれは優しく、どこか温かで、人を愛する喜びが伝わって来るようなものだった。
 けしてプロ裸足に上手いというわけではない。だが、彼が誰かを一途に想い、その相手をひどく大切に考えている気持ちが聞く者に強く伝わって来るかのような、そんな演奏だった。
(ああ……)
 そのピアノを聞くうちに、クライはいったい何をそんなに案じていたのだろうかと、自嘲せずにはいられない気持ちになった。音楽は、技術だけが全てではないのだ。
(そうだ。……ジブリールの歌が人を癒すのは、ただ魔法の力を秘めているからだけじゃない。彼女の相手を癒したいという心が、歌にそんな力を与えるんだ。だがそれは、誰の歌であっても、同じことだったんだ。俺は、それを忘れていた……)
 クライは思わず胸に呟く。そして、そっと目を閉じると、流れて来る旋律にただ身を任せた。

 祭が終わったあと。
 クライとラフティは、月の光に照らされて、どこか濡れたように光る夜道を、家路をたどっていた。
 ウリエルは自宅に向かうカイエを送って行き、アズラエルは会場のあとかたずけに借り出されて、まだあの寺院に残っている。
「あなたには、ずいぶんと気を揉ませてしまったようですが……どうでしたか?」
 しばし無言で歩いていたラフティが、つとクライをふり返って問うた。
「いい演奏だったよ。……失敗するかもしれないなんて、決め付けて悪かった」
 小さくこめかみを掻いて、クライは正直に答える。
「いえ、それについては、気にしていませんよ。……アズラエルにも、私の練習がうまく行ってるかどうか、あなたには話さないでくれと言ったのは、私の方ですからね」
 小さく笑って返すと、ラフティは足を止めた。
「それよりも、あなたにそう言ってもらえて、私は満足です。だって、あれは、あなたに向けたものでしたからね」
 言ってラフティは語った。
 師匠であるピアニストから、今日のための特訓を受け始めた時に、言われたのだと。何より必要なのは、心を解放することだ、と。技術の向上よりも、観客全員を聞き惚れさせることよりも、自分の内側にある強い思いを音と共に外へと解き放つこと。それができれば、技術も曲の解釈も何も、全てあとからついて来ると。
「最初は、半信半疑でしたよ、もちろん。……戦闘だって、技術の向上なくしては、勝利は得られませんからね」
 ラフティは、苦笑しながら続ける。
「私がそう言うと彼は、『ならば、一番自分の心を知ってほしい相手に向けて、演奏してみなさい』と言ったんですよ。それで、あなたに聞かせることを想定して、毎日練習を重ねました」
 そしたら、みるみる上達して行ったんです――と彼は笑った。
 その顔を見やって、クライは再びこめかみを掻く。
(つまりあれは、俺への心の叫び、みたいなもんだったわけか?)
 そう思うと、途端になぜか、妙に気恥ずかしくなった。あの会場には、当然、彼らが共にくらしていることを知る者もいたはずだ。
「どうかしましたか?」
 そんな彼に、ラフティが声をかけて来る。
「いや、なんでもない」
 慌ててかぶりをふって、彼は歩き出した。気恥ずかしくはあるが、けして悪い気分ではないのだ。水を差す必要もないだろう。
 それへラフティは、何を思ったか小さく笑うと、後を追って歩き出す。
 あたりには、ユーリデの白い花が月に照らされ銀色に輝き、冷たく冴えた空気の中、甘い香りを放っている。
 その香りに見送られるかのように、二人は並んで家路をたどるのだった――。
【 日常の些細なこと 3】

 それは、ある日の午後のことだった。
「クライ・カシアスとラフティ・クワイアスの二人が、そろそろこちらに移って来るらしいぞ」
 コンピューター端末機をいじっているテレンスの前に、カーヴァーのカップを置きながら、ラファエルが声をかけた。
「その話なら、私も教母様からお聞きした」
 顔を上げ、カップに手を伸ばしながら、テレンスがうなずく。
 そこは、彼がラファエルと二人で暮らしているフラナガン市内の一画にある小さなアパートの一室だった。
 エテメナンキ解体後、彼はここに移り住み、士官学校で紋章魔法を教える日々を送っている。
 妖魔の正体を知ってしまった今となっては、以前と同じ退魔師の仕事をする気にもなれず、かといってほかにできる仕事もなくて、一時はこの先どうしようかと途方にくれてしまったこともある。
 だが、エテメナンキが再編成されたことにより、牧師でなくとも退魔師の資格が得られるということになって、事情は変わった。
 彼は、教母ラナから、士官学校で魔法を教えてほしいとの要請を受けたのだ。
 幾分迷ったものの、結局彼はそれを受け、今に至っている。
 ちなみに、今日は休日だった。
 テレンスの答えに、ラファエルは少しだけ、感慨深げに呟いた。
「……しかし、あの二人が一緒にくらすようになるなんてなあ……」
「驚くようなことでもないだろう。あの二人には、《神の塔》にいたころから、噂はあった。結局はそれが、本当だったということだろう」
「それはそうだが……」
 そっけなく返すテレンスに言いさして、ラファエルはふいに考え込む顔になった。しばしの沈黙のあと、問う。
「なあ。あの二人って、どっちが女役だと思う?」
 唐突な質問に、カーヴァーを口に含んだところだったテレンスは、思わずそれを吹き出しそうになった。かろうじてこらえたものの、慌てたせいで、激しく咽せる。
「大丈夫か?」
 その背を慌てたように、ラファエルが撫でた。
 ようやく咳がおさまると、テレンスはラファエルを睨み上げた。
「おまえが変なことを言うからだろうが」
「変って……。だが、気にならないか?」
「気になんてならない」
 問い返されて、即座に答えると、テレンスは眉間に深いしわを寄せる。
「そんな下世話なことなんて、どうでもいい。だいたい、私たちとあいつらとは、さほど親しいわけでもないんだ」
「言われてみればそうだが……」
 言いさしてラファエルは、小さく肩をすくめた。
 たしかに、下世話といえば下世話な話だ。それに、テレンスにとっては、興味がないどころか、不快な内容でさえあるらしい。
 そう悟って、ラファエルは言った。
「なんにしても、連中がくれば、にぎやかにはなるだろう。もう敵ではないんだし、仲良くできればいいな」
「ああ」
 まだ眉間に少しだけしわを刻んだまま、テレンスがうなずく。
 それを見やってラファエルは、小さな笑いを口元に刻んだ。わずかに、こめかみにでもくちづけてやりたい衝動が湧いたが、彼は自分を抑える。
 そんなことをすればきっと、テレンスは真っ赤になって怒り出すだろう。
 それはそれで可愛いと思うものの、今は二人、たわいのない会話を交わしながら、午後を過ごすことを楽しむ方がいいと感じているためだ。
 微笑むラファエルに、テレンスは小さく肩をすくめ、再びカーヴァーを口元に運ぶ。
 休日の午後の時間はただ、静かに過ぎて行くのだった――。
【 日常の些細なこと 2】

 目が覚めて、体のだるさとその奥にいまだたゆたっている鈍い疼きにも似たものを持て余し、グラディアスは思わず深い吐息をついた。
 まさか、自分が女のように同じ男性に組み敷かれる日が来ようとは、これまで考えたこともなかった彼だ。
 だが、昨夜はどうしたことか、そういう成り行きになってしまった。
 相手はもちろん、ガブリエルである。
 もっとも、無理強いされたわけではなかった。
 ガブリエルはあんな性格ではあるが、主であり恋人でもあるグラディアスにこうした場面で無理強いするようなことはけしてない。
 とはいえそれは、グラディアス自身が望んだことではなかった。
 いや、そのはずだ。
(そうだ。私の中には、女のように抱かれたいという欲望など、なかったはずだ)
 グラディアスは、改めて胸に呟く。
 幼いころから、幼なじみだったクライに恋をしていた。
 けれど、彼をその腕に抱くことを夢見たことはあっても、その逆はなかったはずだ。
 それは、ガブリエルへの想いを自覚したあとも、同じだった。
 それなのに。
 グラディアスはまた吐息をついた。
「どうしたんですか? そんなに何度も吐息をついて。……昨夜のあれが、そんなにショックでしたか。……いやがってはいないと判断してのことでしたが」
 そんな彼に、食後のカーヴァーを運んで来たガブリエルが、いつもと変わらない淡々とした口調で声をかけて来る。
「朝っぱらから、そんな話をするな」
 グラディアスは、たちまちいやな顔になって返した。が、ガブリエルに隠し事をしてみても無駄なのは彼自身にもよくわかっている。
「……いやじゃなかった自分がショックだったんだ」
 ややあって、ぼそりと返した。
 それを聞いて、ガブリエルはクスリと笑う。
「そうですか。……それはでも、新しい自分をみつける時には、つきものの衝撃だと思いますが。私を愛していると気づいた時も、あなたはやはりショックを受けたのではないですか」
 言われてグラディアスは、たしかにそうだったと思い出す。
 ただ、あの時にはどこか憑き物が落ちたような安堵の気持ちもあったものだ。なにしろ、ずっと囚われ続けていたクライへの想いから解放された瞬間でもあったのだから。
 だが今は、衝撃の方がはるかに大きい。
「無理をすることはありません」
 そんな彼に、ガブリエルは穏やかに声をかける。
「あなたは、男性としての快楽だけではなく、自分が求めれば女性のそれに近いものも享受できると判明したというだけのことです。……私は、あなたが望むことを望む時に与えます。それで、いいのではありませんか?」
 言われてグラディアスは、思わず眉をひそめた。
 なんとなく、彼に丸め込まれているような気もしなくはない。
 だが、考えてみればガブリエルも《天使》とはいえ、男なのだ。それがこれまでずっと、女のように組み敷かれる側を半強制されて来たのだ。
 むろん彼のことだ。それが本当にいやならば、そう意思表示しただろう。
 それに《天使》は幼体のころに、性に関する手ほどきは一通り受けているため、同性との営みにおいては、どちらの役割をすることも問題はなかったはずだ。
 それでも。
「……そうだな」
 低い吐息をついてうなずく彼に、ガブリエルはめずらしくやわらかい微笑みを見せてくちづける。
 おとなしくそのくちづけを受けながら、グラディアスは実はやはり丸め込まれてしまったのだろうかと、小さな苦笑と吐息を胸に落とすのだった。
【 日常の些細なこと】

 ラフティと晴れて恋人同士となったあと、クライにはいくつか日課が増えた。
 その中の一つが、朝起きてからラフティの髪を整え、編んでやることだ。
 するすると手の中を滑って行くその髪は心地良く、クライにとってはけして嫌いな作業ではない。
 ただ時おり、目のやり場に困ってしまうことがある。
 その日の朝も、そうだった。
「……!」
「……どうかしましたか?」
 一瞬、小さく息を飲んで手を止めた彼に、ラフティの怪訝そうな声が届く。
「え? いや……」
 どう返していいものか、とまどいつつもクライはそこから目をそらしたくてそらせない、困った状況にあった。
 彼の視線の先にあるのは、ラフティのすんなりと伸びた白い首だ。
 女性のもののようになよやかではないが、かといって男性特有の無骨さもない。
 どこか別の生き物のそれのような、その耳元近く――長い金の髪をほどいたままならば見えない場所に、鮮やかに小さな赤い花びらのようなものがいくつか刻印されている。
 それは昨夜、クライ自身がそこに刻んだものだった。
 おそらくは、衣服に隠されて見えない場所にも、同じ痕はいくつも印されているだろう。
「クライ、どうしたんです? まだ、眠いですか?」
 答えたものの、いまだ手が止まったままの彼を不審に思ったのか、ラフティがそちらをふり返って訊いた。
「いや。そうじゃない。そうじゃないが……」
 クライはようやく我に返って言うと、そちらにつと手を伸ばす。そのまま、耳元近くの赤い痣に触れた。
「つっ……!」
 途端にラフティは、小さく眉をしかめて声を上げる。実際には痛むほどではないものの、肌がずいぶんと過敏になっているようだ。そしてそのことで彼は、そこに何があるのか、察したようだった。薄く口元をゆがめて、クライを見上げる。
「なんて顔をしているんですか? あなたがつけたものでしょう?」
「それはそうだが……」
 言いさして、クライは降参したように小さく吐息をついた。
「こうやって朝の光の下で見ると、妙にとまどってしまうんだ」
「そういうところは、昔と変わらないんですね」
 ラフティは小さく笑って返すと、彼の頭を抱くようにして、自分からくちづける。
「ラフティ……」
 されるままになりながら、小さく目を見張るクライに、ラフティは幾分挑発的な目を向けた。
「今日は私たち、どちらもなんの予定も入ってないから、ゆっくり休んでいいと昨日ラザレスが言っていましたよね?」
「ああ」
 クライもうなずく。
 エテメナンキ解体のあと、世界連合の創立などもあって、二人はアニエスの王城に居候したまま、ラザレスを手伝う形で忙しい日々を送っていた。
 だが、たしか昨日はラザレスからそんな言葉をもらっていた。
「なら……もうしばらく、二人でいてもいいと思いませんか?」
 低く問われて、クライは更に目を見張る。
 それがどういう意味かは、改めて問うまでもない。
 こちらを見上げて来る青い瞳に潜む濡れたような光と、誘うように小さく開かれた唇に、クライはふいに息苦しくなるのを覚えた。まぶたの裏に、先程目にしたばかりの刻印が、鮮やかに赤く浮かび上がる。
「ああ……。そうだな……」
 答えるのももどかしく、彼はその体を抱きすくめるようにして、ベッドに身を沈めた。
「素直なあなたが、好きですよ」
 ラフティは低く楽しげな笑いを漏らしながら、その首に腕を回す。
 窓から射し込む朝の光に、彼の金の髪がきららかに輝き、クライの夜の色の髪と交じり合う。
 だが、それを咎める者は誰もおらず、世界はただ濃密な時間の中に溶けて行くばかりだった――。
【 子守歌 3】

 庭に水をまきながら、家の中から聞こえて来る鼻歌を聞くともなしに聞いていたアズラエルは、思わず眉をひそめて手を止めた。
 クライとラフティが一緒にくらすためにフラナガンの東の高台ウィンド・ヒルに買った家に、アズラエルとウリエルも共に越して来て、ようやく半月程度になるだろうか。
 家には小さな庭があって、手入れは今のところ彼ら二人の《天使》の役目となっている。
 鼻歌の主はウリエルだ。
 ジブリールに教えてもらったのだという子守歌が気に入っていて、よくうたっている。
 ウリエルが意外と歌がうまいことも、うたうのが好きなことも、長いつきあいなので知っている。なので、今更驚いたりはしない。
 そうではなく、彼が手を止めたのには理由があった。
 ウリエルがこの歌をうたうようになってから、ずっと何か引っかかるものを感じていたのだが、その訳がようやくわかったのだ。
(私は、この歌をずっと昔に聞いたことがあったんだ……)
 どこか愕然として、彼は胸に呟く。
 そう。それも、ラフティに出会うよりもずっと昔に。

 彼ら《天使》は、全員が《神の塔》のラボで生み出され、そこで育った。
 彼らは兵器ではあるが、人間のように時間をかけて成長する有機型兵器なのだ。
 ある程度まで成長すると、《天使》には一人一人教育係がつけられて、人間社会に混じるためのさまざまな教育が施された。
 アズラエルの教育係は、ラボの副所長でもあったイーヴァだった。
 そのせいで、幼いころの彼はイーヴァと過ごすことが多かった。
 それは、そんな日々の中での出来事の一つだ。
 イーヴァの自宅の居間で、ソファに並んで座り、ネットのテレビで放送されていた映画を鑑賞していた時だ。彼はいつの間にかうとうとと、居眠りをしてしまっていた。
 《天使》は人間に較べると、長時間眠らなくても平気で動くことが可能だが、その時の彼は連日イーヴァにつきあわされて疲れていた。その上、その映画はあまり彼の好きなものではなく、退屈したせいでもあったのだろう。
 とはいえ、完全に眠りに落ちてしまっているわけではなく、半ば目覚めていて半ば眠っているような、そんな状態だった。
 その彼の耳に、どこからか聞こえて来たのが、その子守歌だったのだ。
 低く耳に心地よく響くバリトンの歌声は、彼の半分だけ目覚めていた意識に染み渡り、完全なる眠りへと誘う。
 そうして、本格的に眠ってしまった彼は、翌朝イーヴァのベッドで目覚めることになったのだった。

 はるか昔の記憶をよみがえらせて、アズラエルは更に深く眉根を寄せた。
(……まさか、あの時の子守歌をうたっていたのが、イーヴァだったなどと、気づけという方が無理な相談だ)
 胸に呟き、彼は小さく溜息をつく。
 あれからしばらくは、その歌声は映画の中のものだったのだと思っていた。だが、後日改めてその映画を見る機会があって、そうではないと知ったのだ。
「おまえがあんまり気持ち良さそうに眠ってるから、つい子守歌なんぞ口づさんじまったのさ」
 思わずそれについて問い質したアズラエルに、イーヴァはさらりとそんな答えを口にして笑っていたものだ。
 彼がなぜ、マリアに伝わる子守歌などを、知っていたのかは、わからない。
 ただ彼は、あの当時は時折そんなふうに優しい顔をして見せて、アズラエルを翻弄していたのだった。
 なんにしても。
(昔、ジブリールが歌っているのを聞いた時にも、何か引っかかる気がしていたが……)
 再び胸に呟き、アズラエルはまた溜息をつく。
 その当時は、思い出さなかったものを、なぜ今更思い出したのか。
 はたして、思い出せてよかったのかどうか。
「……思い出したから、なんだというんだ。もう、あいつと私は二度と会うことはない」
 顔をしかめて低く呟くと、彼は中断された水まきをようやく再開するのだった。
【 子守歌 2】

 どこかで誰かが歌っている――。
 グラディアスは、ベッドに横たわったままぼんやりとそんなことを考えていた。
 意識はまだ半分眠りの中にあって、ふわふわと心地よく、ともすればまたそのまま夢の淵へと落ちて行きそうな状態だ。
 おそらく時刻はすでに昼に近いのだろう。
 とはいえ、ここでは特別、早く起きる必要もなく、決められた仕事も何もない。
 南の極に位置する封印大陸のほぼ中央。《神の塔》が解体された後に建てられた《極光の塔》は、彼とかつて《至高天》を名乗っていたリリス、イーヴァをゆるやかに拘束するための場所だ。
 とはいえ、その建物の中では自由に行動することができる。
 ただ、かつてのような役目・仕事といったものはなくなり、グラディアスにとってはいささか手持ち無沙汰な日々が始まった。
 それでも、一年近くが過ぎれば、ここでのくらしにも多少は慣れて来る。
 昨夜は、めずらしくリリスやイーヴァと飲んだせいで、床に就いたのは夜半をすぎてからだった。おかげで、こんな体たらくである。
(……そう急ぐ用もないんだ。もう少し眠るか)
 胸に呟き、更なる惰眠を決め込んで、彼が意識を完全に眠りにゆだねようとした時だ。
 空耳かと思うほど遠かった歌声が、ふいに頭上から降って来て、彼は思わず顔をしかめた。
 歌そのものは、子守歌だった。
 それも、遠い昔に母がよくうたってくれたものだ。
 だが、今聞こえているそれは、硬質な氷を思わせる響きがあって、眠ることよりも起きることを促しているようだ。
 グラディアスは、不機嫌に顔をしかめたまま、目を開けた。
 そして、頭上からこちらを覗き込んでいる、彫像めいた白い顔と瞳も虹彩もない金属的な銀色の目にぶつかって、更に顔をしかめた。
「ガブリエル」
 歌いながら彼を見下ろしていたのは、彼の《天使》ガブリエルだった。
「……なんでそんなに挑発的にうたうんだ。それは、子守歌だぞ」
「そうなのですか?」
 ガブリエルはまるでそんなことは初耳だと言いたげに返して、主の上に身を屈める。
 冷たい唇に起きることを強要されて、グラディアスは小さく溜息をついた。しかたなくベッドの上に身を起こし、改めて枕元の時計を見て、実際には思っていたよりもはるかに遅い時刻だったことに気づく。
 いかになんの用事もないとはいえ、これではガブリエルが起こしに来るのも当然だった。
 グラディアスはもう一度溜息をついて、ベッドから出ようとしたが、ふと眉をひそめた。
「さっきうたっていた歌を、どこで知ったんだ? あの子守歌のことを、おまえに話したことがあったか?」
 思わず尋ねたのは、ガブリエルとの長いつきあいの中でも、そんな話をした記憶がついぞなかったからだ。もっとも、精神の一部がつながっているのだから、その気になればいくらでも知ることはできただろうけれど。
「昨夜、酒の席であなたが話してくれたのですよ。母がよく、幼いあなたにうたってくれた歌だと。……少しフレーズを口づさんでいたので、それを元に検索しました」
 ガブリエルは、いつもどおりの淡々とした口調で答える。
「私は、うたったのか? おまえや、リリスたちの前で」
 途端にグラディアスは、眉をしかめて問い返す。いくらなんでもそれは、恥ずかしい。
 対してガブリエルは、小さく肩をすくめた。
「小声で、一小節程度を口づさんだだけです。リリスとイーヴァには聞こえていなかったかもしれません」
 淡々と返す自分の《天使》をうろんな目で見やり、グラディアスはみたび溜息をついた。
 そうして、ようやくベッドから出る。
 いかに以前のような役目や仕事がないとしても、もうちょっと気を引き締めて生活する必要があるのではないかと自分自身に言いきかせながら。
(少なくとも、酒の席でうたうようなことは、慎まないとな)
 そう低く胸に呟く。
 いくら長いつきあいだとはいえ、リリスやイーヴァはクライやマニとは違う。なんの屈託もなく、あけすけに自分自身を曝け出すわけにはいかないのだ。
 しっかりしろと、小さく自分の頬を叩いて、彼はようやく寝室を後にするのだった。
【 子守歌 1】

 どこか聞き覚えのある旋律に、クライはふと眉をひそめてふり返った。
 歌っているのは、彼の《天使》ウリエルだ。
 一年余りもアニエスの王城で居候をしたあと、彼ら――クライとウリエル、ラフティとその《天使》アズラエルの四人は、フラナガンの東の高台ウィンド・ヒルに買った家へと引っ越して来た。
 それは、彼らがそこに越して来てさほど日を置かない、ある日のことだった。
 ウリエルは台所でカーヴァーを入れていた。
 ラフティはアズラエルと共に出かけており、家には彼ら二人だけである。
 クライはしばし眉をひそめたまま、なぜその旋律に覚えがあるのだろうかと考え、気づく。
 それは、遠い昔に彼の母がよく口づさんでいた子守歌だ。
 母は自分を育ててくれた祖母がよく歌っていたと言っていたから、おそらくはマリアに伝わるものなのだろう。
 だが、なぜそれをウリエルが歌っているのだろうか。
 やがて、入れたてのカーヴァーを居間へと運んで来てくれたウリエルに尋ねると、彼は笑って言った。
「ジブリールに教えてもらったんです」
「ジブリールにだと?」
 思わず問い返すクライに、ウリエルはうなずく。
「はい。……先日、カイエと一緒にこの家を見に来たおりに、彼女が歌っていたので、きれいな旋律ですねと言ったら、教えてくれました」
「そうか」
 ウリエルの説明にクライも納得してうなずき返した。
 カーヴァーのカップを口元へと運びながら、ジブリールもまた、母の子守歌を聞いて育ったのだと、ふと思う。
 育ったというと、少し違うかもしれない。ジブリールは彼らの家に来た時からずっと、今と同じ十七、八歳ぐらいの少女の姿だったのだから。
 けれど、彼女はカシアス家の者にとってはたしかに家族の一員だった。母のミナにとっては娘であり、ジブリールにとってもその人は母だったのだ。
 歌によって心身共に他人を癒す力を持つジブリールだったが、母の歌う子守歌には、彼女自身が誰より癒されていた。実際クライは、彼女がそんな意味のことを口にするのを、何度か聞いたことがある。
(……彼女は、昔もよくあの子守歌をうたっていたな……)
 クライは思い出して、胸に呟いた。
 母がひどい死に方をして、彼自身もまだ傷が癒えずに床に就いていたころ、彼女は父や自分が母を思い出して辛い思いをしないようにと、その歌を口にすることを自らに禁じていたのだという。
 なので、母の死からしばらくの間、彼らはその歌を聞くことがなかった。
 それをしばらくぶりに聞いたのは、いつのことだっただろうか。
(たしかそうだ……親父の葬儀の時だ)
 そう。たしか彼女は葬儀の席で、父を送るための歌としてそれをうたったのだ。
 そのあと、クライは何度も彼女のうたう子守歌を聞いた。
 ジョゼのお茶会に呼ばれて、まだライリアの軍人だったラフティと引き合わされて倒れたあとも、夢の中でずっと彼女のうたう子守歌が流れていたような気がする。
(俺にとってもこの歌は、癒しの歌なんだな)
 小さく胸に呟いて苦笑するとクライは、相変わらずどこか楽しげに子守歌を口づさむウリエルの歌声を聞きながら、温かなカーヴァーをゆっくりと飲み干した。
【 夢の残滓】

 夜明け前。
 ふと目覚めたガブリエルは、隣で眠っていたはずのグラディアスの姿がないことに気づいて、ベッドを出た。
 そのまま、彼の気配を追って、バルコニーの方へと足を運ぶ。
 《神の塔》の最上階、法王府エリアの中心に建つ翼竜(よくりゅう)殿の一画にある大司祭のための住まいには、いくつもの部屋がつらなっていて、この寝室もその中の一つだった。
 寝室には、小さなバルコニーがついていて、建物の外の景色を眺めたり、夜風にあたったりすることができるようになっている。
 ガブリエルがそのバルコニーに行ってみると、グラディアスが一人佇んで、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
 身にまとっているのは、上下に分かれた白いゆったりとした寝巻きで、長い髪は束ねもせずに背に流したままだ。
「グラディアス」
 ガブリエルが声をかけると、ふり返る。
「どうしたんですか? まだ夜が明けていませんが」
「夢を見たんだ」
 彼が問うと、グラディアスは言った。
「猊下……先の法王猊下の夢を」
「先の法王の夢……ですか」
「ああ。……私は昔のように、朝の挨拶をするためにあの方の元に向かい、その足元にひざまずいて、何事かを告げた。ふと顔を上げると……あの方が、笑っていらしたんだ」
 うなずいて告げるグラディアスに、ガブリエルはどこか子供をあやすような笑いを浮かべてかぶりをふった。
「でもそれは、夢です」
「ああ。だが……」
 言いさして、グラディアスはつとガブリエルに歩み寄ると、その体に腕を回し、額をその肩にもたせかけた。
「ひどく鮮明で、まるで現実のような夢だった」
 低く呟くように告げる。
「そうですか」
 同じように低く返して、ガブリエルはその背をそっと撫でた。
 そしてふと、バルコニーから臨める空へと目をやる。
 うっすらと白みかけた空には、二つの月がほの白く浮かんでいた。二つとも真円に近く、一つは空の端に半分沈みかけ、もう一つは東の建物の影にいくらか隠れるようにしてまだたゆたっている。
 それは、塔の中に最先端の科学技術によって造られた、偽者の空と月だった。それでも、人の心をなだめる効果ぐらいはあるだろうとガブリエルは考える。
「まだ月は沈んでいませんし……庭を散策してみませんか」
「……そうだな」
 少し考えうなずくと、グラディアスは彼から身を離した。
 とはいえ、ここから庭まで行くには、部屋を出ていくつもの回廊や階段を通る必要がある。夜明け前とはいえ、すでに使用人たちや見習いの牧師や司教らは、起き出して動いているに違いない。そうした者たちと出会う可能性を考えて、グラディアスは少しだけ庭に出るのがおっくうになった。
 それを察して、ガブリエルはつと彼の体に腕を回す。
「ガブリエル?」
 怪訝な顔になるグラディアスに小さくうなずき、彼は背に普段はたたんでしまってある青い四枚の翼を出して、広げた。そのまま、翼をはばたかせてグラディアスを腕に抱いたまま、ゆるりと舞い上がる。
 彼らがバルコニーからその下に位置する中庭まで降りるのは、ほんの数瞬のことだった。
 庭に降り、グラディアスを離して翼をたたむと、ガブリエルは普段とかわらない穏やかな顔で彼を見やる。
「さて、では、月が沈むまで、中庭の散策につきあいましょう」
 グラディアスは、わずかに目を見張ってそんな相手を見返したが、ただ「ああ」とのみうなずいて、歩き出した。ガブリエルも、それに従う。
 夜明け前の空気は静謐で冷たく、どこか清々しくさえあった。
 しばらく行ったところで、グラディアスはつと立ち止まり、空を見上げる。
 ガブリエルはその横顔に、わずかに夢の残滓がこびりついているのを見たが、それが静かに剥がれ落ち、消えて行くのを感じて、小さく口元だけで微笑むとつと伸ばした手をその腕に触れた。
 空は先程よりも明るくなり、二つの月がゆっくりと消えて行こうとしていた――。
【 髪を編む 2】

「どういう風の吹き回しだ?」
 ラフティの、するすると指の間から逃げて行くような髪を捕らえ、慣れた手つきで一本に編んで行きながら、アズラエルは尋ねた。
「何がです?」
 大人しくされるままになりながら、ラフティが問い返す。
 彼らがアニエスの都ニエベスの王城でくらすようになって、何日目かの午後のことだった。
 王であるラザレスに乞われて、彼が王位に就いてから組織した近衛隊の戦闘訓練の指導をしたラフティは、汗を流すために風呂を使ったばかりだった。
 束ねて一本に編んであった髪は当然、ほどいてしまっている。
 それで、アズラエルが濡れた髪を乾かし、今こうして編んでいるわけなのだが――。
「私が、おまえの髪を編むことは、もうないと思っていたのだが」
 問い返されて、アズラエルは端的に答えた。
 その言葉に嘘はない。
 これまで、彼の髪をこうして編むのは、アズラエルの役目だった。
 髪に触れられることが好きなラフティは、なめらかすぎて束ねたり編んだりするのが難しいその髪をまとめるのは、アズラエルかその時一番心を許している相手の役目だと、勝手に決めている部分があった。
 とはいえ、これまで彼の髪を編むことを委ねられた人間は、そう多くはない。
 彼の「恋人」と称された人間たちはほぼ論外で、実際にはそれはライリアの女王ネイジアやカイエ、その《織天使》ネメシスといった、いわば「身内」のような者ばかりだった。
 だが、今は事情が違う。
 ラフティは、長い間恋焦がれていた相手と、ようやく想いが通じ合い、晴れて本物の恋人同士となった。
 人前ではさすがに、これまでどおりにふるまっているものの、夜はずっと二人きりの時間を過ごしていることを、アズラエルはよく知っている。
 そもそも、この日も戦闘訓練の指導はラフティ一人でしたわけではなく、彼の恋人クライ・カシアスも一緒だった。つまり、何もアズラエルに髪をまとめてもらわなくとも、恋人に好きなだけ髪に触れてもらって、楽しい時間を過ごせばいいのだ。
 それなのに、なぜ――という思いは、当然アズラエルの中にはあった。
 彼の答えに、ラフティは薄く笑う。
「どうしてですか? あなたは私の《天使》で、私が誰よりも心を許し、預けることのできる相手ですよ?」
「ふん。……よく言う」
 聞くなり、アズラエルは肩をすくめた。
 もちろん、その言葉が完全に嘘だとは思わない。だが、全て真実というわけでもないだろう。
 そんな彼の思いを、ラフティも察したのか、小さく笑って言った。
「たまにはあなたにも、私がそう思っているんだということを示しておかないと、ヘソを曲げられてしまうかもしれないと思ったものですからね。……まさか、あなたがクライに妬くとは思いませんでしたから、これでも私は慌てているんですよ?」
「おい……?」
 主の言葉に、アズラエルの眉根が寄せられ、髪を編んでいた手が止まる。
「誰が誰に妬いただと?」
「自覚がなかったんですか? このしばらく、あなたのクライを見る目は険悪ですよ。それに、いつもより私に対して世話焼きになっているように思いますけれど?」
 思わず問い返すアズラエルに、ラフティはさらりと答えた。だが、その声音にはわずかに笑いが含まれていて、彼がこの状況を楽しんでいることが伺える。
 それに気づいて、アズラエルは更に顔をしかめた。
「ったく……人をからかうのも、いい加減にしろ」
 うんざりと返して、素早く髪を編み上げてしまうと彼は、手を離す。
「そういう戯言を言うのは、あいつだけにしておけ」
 そっけなく言って、身をひるがえしたものの、それがラフティなりの気遣いなのだとは理解していた。
 とはいえ、彼にしても、自分が主の恋人に嫉妬していたなどとは、認めたくない。
 そんな彼の背に、ラフティの相変わらず笑いを含んだ声がかかる。
「そうしますよ。……ありがとう」
 だが、アズラエルはそれには答えず、そのままそこを後にした。
【 髪を編む 1】

 あたりがほのかに明るくなり始めたばかりの、夜明けのころ。
 クライは、隣で身を起こしたラフティの動きに沿って、その金の髪がするすると白い肩や背を這うのを、見るともなしに眺めていた。
 ラフティの髪は驚くほどになめらかで、文字どおり絹糸のようだ。
 普段は後ろで一本に編んで束ねているが、それでもほどいた時にまったく跡が残っていない。
「どうしました?」
 クライの視線に気づいたのか、ラフティがつとこちらをふり返り、訊いて来る。
「いや……。きれいな髪だなと思って……」
 まだ幾分眠気に支配されていたせいか、つい正直に口にしかけてクライは途中で言葉を途切れさせると、困ったようにそっぽを向いた。
「それはどうも」
 そんな彼にラフティは、笑いを含んだ声音で言って、つと身を寄せる。額にキスを一つ落として、もう一度笑いかけると言った。
「髪を、編んでもらえますか?」
「ああ」
 照れかくしに軽く顔をしかめてみせながらうなずき、クライは起き上がる。
 その彼に、ラフティは背を向けた。
 枕元には櫛などという気の利いたものはなかったが、ラフティの髪は手櫛一つで充分に整ってしまう。それに、クライにとって彼の髪を整え、一つに編むのは、自分の髪を整えるのと同じほどに慣れたことでもあった。
 するすると指の間をすべって行くその冷たくなめらかな感触を楽しみながら、クライは彼の金の髪を整え、きつく編み始める。
 そうしながら改めて、なんと長いつきあいなのだろうと、ふと思った。

 彼が、初めてこんなふうにラフティの髪を編んだのは、まだフラナガンにいて画家をしていたころだ。
 気持ちの上ではとっくに恋に落ちていたものの、関係的には友人で――クライは、大聖堂の騎士殿の一画に間借りしていたライリアの駐留軍宿舎へラフティに会うために、しょっちゅう通っていたものだ。
 そんなある日、非番で遅くまで眠っていたというラフティが、珍しく髪を束ねないままに彼の前に現れた。それで、髪を編んでやることになったわけだが――。
(何かこう……変な感じだったな。髪を流したままのこいつの姿にも、何かドキドキしたし、その髪を俺が編んでやるっていうのも……)
 当時のことを思い出し、クライは胸に呟き、苦笑する。
 彼自身も当時から髪は長かったし、ジブリールや母の髪を束ねてやったこともあるけれども、その時のそれは、それらとはずいぶんと違っていたものだった。
 《神の塔》で再会してからも、彼がラフティの髪を整えてやることは、頻繁にあった。
 二人で飲み明かした翌朝などは、気づくとラフティが隣で寝ていて、なぜか髪がほどけていて編み直してやる、といったことが多かったのだ。
 そうした時には、実際は何もなかったにも関わらず、やはりクライはなんとなく奇妙な心持ちにさせられて困ったものだった。
 それに較べれば、今はずいぶんとすっきりしたものだ。
 むろん、その髪の手触りや白い背中や肩に、気持ちを揺さぶられないと言えば、嘘になる。
 だが今は、そのことそのものになんの禁忌もないのだ。
 ラフティへの気持ちを、封じ込めておく必要は、もうなくなった。
 時間さえ許せば、その背や肩に触れることはもちろん、そのまままた褥に逆戻りしようとも、なんの支障もない。

 やがて髪はきれいに編み上がり、クライは先を輪ゴムで止めて、手を離す。
「できたぞ」
「ありがとうございます」
 声をかけると、ふり返ったラフティが微笑んで言った。
「ああ」
 それへうなずきながら、クライは少しだけまぶしげに目を細めるのだった。
【 好みは十人十色 3】

 ふうふうと息を吹きかけ、適度な温度に冷ましてから差し出されるスプーンを、大きく開けた口で受け取りながら、テレンスはまるで自分が小さな子供になったようだとふと思う。
 長らくの監禁生活と、その後の無理な逃亡劇で一時は人事不省に陥っていた彼は、フラナガンの軍病院に詰める医術師たちの治療のおかげで意識も戻り、今ではこうしてベッドの上に起き上がることもできるようになっていた。
 彼の《天使》となったラファエルは、ずいぶんと献身的に身の回りの世話をしてくれる。
 今日も今日とて、彼の好きなミルク粥を厨房に頼んで作ってもらい、こうして運んで来て少しずつ冷ましながら食べさせてくれているのだ。
 ミルク粥は、国や地方によって、ずいぶんと味や調理法に違いのある料理だ。
 テレンスの生まれたマルガレーテでは、それは米を牛乳と鶏がらスープで煮込んで塩・胡椒を加えた、どちらかといえばやや辛めの料理だった。
 けれどもテレンスは、果物や砂糖を加えて甘くしたクラリスやマリア、西ゲヘナの南部などで食べられているものの方が好きだった。というのも、彼の師匠のアンバー・ラズモントがいつも作ってくれたのは、そちらだったからだ。
 そんなわけで。今彼が口にしているそれも、やはり甘い。
「おまえ、美味そうに食べるよな。……よほど腹が減ってたのか? それともこれが、そんなに美味いのか?」
 口に入れたものを忙しく咀嚼する彼を見やって、ラファエルが感心したように問うた。
「どっちも、かな。……何、ミルク粥食べたことないの?」
 彼が問い返すと、ラファエルはうなずく。
「なら、一口食べてごらんよ」
 言われてラファエルは、スプーンですくってそれを口に入れる。そうして、目を輝かせた。
「美味い」
「だろ?」
 相手が気に入ったことに気を良くしてうなずくと、テレンスは懐かしげに器の中のミルク粥に目をやる。
「私は、これが大好きなんだ。私が疲れていたり、任務で怪我をしたりした時は、アンバー様がいつもこれを作って下さった。そのせいかな。これを食べると、なんだか元気が出るような気がするんだ」
「そうか。……なら、もっと食べて、早く元気になれ」
「うん」
 ラファエルのいつくしむような言葉と目に、強くうなずくとテレンスは、相手の手からそっとスプーンを受け取って、自分でミルク粥を食べ始めた。
【 好みは十人十色 2】

 まだ、エレンデルが法王となるより以前の、ある年の新年の宴の席でのこと。
 少し遅れて宴の会場に足を踏み入れたグラディアスは、ふいに眉をしかめて視線をそらした。
 何を話しているのかまではわからなかったが、クライとラフティが楽しげに笑い合いながら、互いのグラスを交換し合っている姿を、たまたま目にしてしまったのだ。
 このころのグラディアスは、クライにけしてかなうはずのない想いを懸けていた。そのせいで、かつては友人だったはずの彼との関係はぎくしゃくしていたし、ラフティに対しては一方的に敵愾心を抱いていた。
 とはいえむろん、それを知っているのはクライ当人とラフティ以外の《至高天》の面々、そしてグラディアスの《天使》ガブリエルぐらいのものだったけれど。
「どうしました? そんな顔をして」
 胸をえぐる痛みに思わず唇を噛むグラディアスに、どこか冷ややかな響きさえある淡々と高ぶらない声がかけられた。ふり返ると、そこには《天使》ガブリエルが立っている。
 白い整った面と長く伸ばした白金の直ぐな髪、そして《天使》に特有の瞳も虹彩もない銀色の目は、身に着けた白い服ともあいまって、その声と同じく冷ややかさを感じさせ、彼をまるで氷の彫像のようにも見せていた。
「別に、なんでもない」
 自分の《天使》でありながら、彼が苦手なグラディアスは、更に眉間のしわを深くしながらそっけなく答える。
「そうですか。……カクテルをどうぞ」
 だがガブリエルは、そんな主の態度には慣れているとみえて、小さくうなずくと手にしていた二つのグラスのうちの一つを差し出した。中には透き通った赤い液体が入っている。
 それは、グラディアスがこうした席で好んでよく飲む、紅茶とドライローズをベースにしたローズスカッシュと呼ばれるカクテルだった。
 彼は黙ってそれを受け取り、一口飲んでからガブリエルの手にあるグラスを見やった。
「なんだ? それは」
 あまり見たことのない、乳白色の液体がそこには注がれていて、なんとなく興味を引かれて彼は問う。
「飲んでみますか?」
 ガブリエルは質問には答えずに、グラスを差し出した。
 グラディアスは軽く眉をひそめたものの、受け取って軽く匂いを嗅いだ後、口をつける。だが、たちまち顔をしかめた。
「なんだ、これは。こんなものを、よく飲むな」
 そう言うのも道理、そのカクテルはひどく酸っぱい上に、飲んだあと口の中になんともいえない渋味が残る。もしも相手がガブリエルでなかったら、腐ったものを悪意で差し出されたとでも思ってしまうかもしれないだろう、すさまじい味だった。
 だが、ガブリエルは返されたグラスを受け取って、平然と笑う。
「人を選ぶ味ですが、慣れれば意外と病みつきになります。私も最初は、あまりの癖の強さに、顔をしかめてしまいました。が……どうしてだか、気になってしまって、宴に出るたびこうして手にしてしまうのです」
 言って彼は、まるで水でも飲むように、そのカクテルを口にした。
 それを見やってグラディアスは、思わずまた顔をしかめる。
「まったく。おまえの好みは、変わっているな」
「ええ。……自分でも、そう思います」
 うなずいて、薄く笑うガブリエルの言葉に、何か別の含みがある気がして、グラディアスはふいに居心地が悪くなった。それをごまかすように彼は、ローズスカッシュを口に運ぶ。
 ガブリエルはまた薄く笑ったが、すぐに素知らぬ顔でグラスの残りを飲み干した。
【 好みは十人十色 1】

 手にしたカクテルに口をつけるなり、クライは派手に顔をしかめた。
「なんだこりゃ。……子供用のジュースでも、今時ここまで甘くないぞ」
 ぼやく声に、ラフティは思わずふり返って苦笑を漏らす。
 それは、二人がまだ《神の塔》にいて、ラフティがカイエを伴って旅に出る以前のこと。
 翼竜よくりゅう殿で行われた、新年を祝う宴の席でのことだった。
 クライが手にしているグラスには、鮮やかなオレンジ色の液体が注がれている。一見すると柑橘類をベースにしたものとも見えるが、実はそうではない。糖分をたっぷり含んだ、アプリカと呼ばれる果物をベースに、甘口に調合されたカクテルだ。
 ラフティがそれを教えると、クライは更に顔をしかめる。
「アプリカって、普通に食べても死ぬほど甘い、あれか。……うう、冗談じゃないぞ」
「あなたは、甘いのが苦手でしたものね。それなら、これはどうですか?」
 ラフティは笑って言うと、さっきから自分が飲んでいたグラスを差し出した。
 こちらは、グラスの中で液体が緑と黄色の層を成している。
 クライは差し出されたそれを、軽く目を眇めて眺めた後、受け取って口をつけた。
「お、こいつはいける。……さっぱりして、口当たりも悪くないな」
 ようやく愁眉を開いたその顔に、ラフティは微笑むと、彼の手からオレンジ色のカクテルの入ったグラスを取り上げる。
「では、こちらは私がもらいますね」
「そういや、おまえは甘いの平気だったんだな」
 思い出したように返すクライに、ラフティはうなずいた。
「ええ。辛いものも嫌いじゃないですが、甘いものも全然大丈夫ですよ」
 そうして彼は、たった今クライから取り上げたグラスの中身を一口飲むと、やわらかく微笑んでグラスを軽く掲げてみせる。
 クライはそれへ、半ば呆れたように肩をすくめて返すと、手の中のそれに口をつけ、ゆっくりと味わうように飲み干した。
【 腐れ縁 】

 自分のために割り当てられた部屋に入って、あたりを見回すケルピムの目を通し、マニはその部屋の様子を見やった。そして、ちょっと不思議な気分になる。
 今のマニは、かつて自分の《天使》だったケルピムの中にいる。
 正確には、彼の記憶や性格などをそっくりそのままコピーしたデータが、ケルピムのメモリーの空いた部分に移植されているだけなので、それはマニ・アニエスの擬似人格プログラムと言ってもいいものなのかもしれなかった。
 だが、当人の感覚としては、意識だけがケルピムの中にある、といったふうだ。
「なんかこう……妙な感じだよなあ……」
 彼自身が命じた仕掛けが作動して、ケルピムが新たに彼の子孫ラザレスの主として目覚めてからもう二月ほどにはなるのだが、それでもマニの中からそれは抜けず、思わずそんなふうに呟いてしまう。
 と。
「そう言うなよ。……俺だって、な〜んか変な感じなんだからよ」
 ふいに話しかけて来たのは、ほかでもないケルピムだった。
 この二ヶ月ほどの経験で、ケルピムとはいわば心の中で意志の疎通が取れることは、はっきりしていた。けれども、こんなふうに言葉にして話しかけられるのは、初めてのことだ。
「おまえも、そうなのか?」
 思わずマニは返す。
 とはいえ、今この体を使っているのはケルピムなので、マニのそれはケルピムにしか聞こえない心の声のようなものだった。つまりケルピムは、他に見ている人がいれば、自分に向かって独り言を呟いているだけというふうに見えただろう。
 それはともかく。
「あたりまえだろ。いくら長年一緒だったあんただとはいえ、頭の中にもう一人、別な奴がいるんだぜ。それで平気な方がどうかしてるぞ。……おまけに、俺たちの思考は互いに筒抜けだ。《天使》と主として、精神の一部をつなげてた時より、始末が悪いと来てる」
 ケルピムが、小さく顔をしかめて言った。
「あー。そういや、そうだったけな」
 思い出してマニは、体があれば、顎でも掻いていただろう声を出す。
「おかげで、おまえがラザレスや周りの人間たちをどう思っているかも、よくわかったよ」
 続けて放ったマニの声は、からかいの色を帯びていた。
「そう言うと思ったぜ」
 顔をしかめ、少しだけ照れくさげな顔になって、ケルピムは広い肩をすくめる。
「これからは、惚れた女ができたとしても、あんたにだけは隠せないってわけだ。難儀なこった」
「そのかわり、困ったことや悩み事には、二人で当たれる。そう、悪いことばかりでもないぜ」
「ふん、言ってろ」
 ケルピムは、再度肩をすくめて吐き捨てた。
 けれども、彼がけしてこの状況を本気で嫌っているわけではないことは、マニにも伝わっていた。
(こういうのを、腐れ縁っていうのかね。……なんにしても、長く生きると面白いことに出くわすもんだ。自分で作った状況とはいえ……な)
 彼は胸に呟き、そして意識だけで薄く笑うのだった。
【 抱擁 】

 「どうして、あんなことをしたんだ」
 深夜、ようやく自分たちの部屋に戻ってグラディアスは、ガブリエルに詰問したものだ。
 法王エレンデルとのお茶の時間に、ふとしたことで真実が――ガブリエルが愛しているのは主であるグラディアスであり、エレンデルとのことはライラの命令で恋を仕掛けたにすぎなかったというそれが明るみに出て、エレンデルが倒れるやら、彼らが二人してライラに呼びつけられるやら、あれこれと騒ぎがあった、その夜のことである。
「偽りの恋を、終わりにしたかったからです」
 ガブリエルは、いつもどおりの冷静で淡々とした口調で、それへ返す。
「ようやくあなたを手に入れたのに、このままずっと、偽りの恋に時間を取られ、あなたと蜜月を過ごすには人目を忍ばなければならない、そんな状況を終わりにしたかったのです」
「ガブリエル……」
 口調は淡々としているものの、こちらを見詰めて来る視線は熱く、グラディアスは思わず返す言葉を失った。
 だが、ややあって、小さく吐息を漏らす。
「……私だって、あんな状況がずっと続くのは、いやだった。けれど……」
「もっと、穏便な方法があったはずだと?」
 うなだれるようにして呟くグラディアスに、ガブリエルは少しだけ嘲るように問い返した。そして、小さく肩をすくめる。
「そんな方法など、ありません。……仕掛けられたものとはいえ、エレンデルは私に本気でした。そして私もあなたに本気です。ならば、修羅場になるしかないんです。そうでしょう?」
 問い返されて、グラディアスはまた吐息をつく。
「……そうだな」
 ややあって、ぽつりと言った。
 その彼の体に、ガブリエルがそっと腕を回して、抱きしめる。
「とりあえず今は、人目を忍ぶ必要がなくなったことを、喜びましょう。後のもろもろのことはまた……夜が明けてから考えればいい」
「……ああ」
 グラディアスはわずかに眉をしかめて反論しかけたものの、小さく溜息をついて、うなずいた。
 自分はもう、はるかな昔から、数え切れないほどの夜を、この腕にすがって乗り越えて来たのだと、ふと思う。
 その彼の頬に、ガブリエルの冷たい唇がつと触れた。それから、そっとなだめるように唇を重ねられる。
 それに応えながらグラディアスは、彼の言うとおり、今だけは全てを忘れてこの腕に身も心もゆだねてしまえばいいのだと自分に言い聞かせ、そっと体の力を抜くのだった。
【 悪戯 】

 「し、失礼しました!」
 裏返った声と共に、《アサシン》の新米隊員が、クライの寝室をころがるように駆け出して行った。
 無理もない。あの年齢の若者ならば誰だって、こんな場面に遭遇すれば、同じように慌てて退散するだろう。
 ラフティは、少しだけ意地の悪い笑みを口元に浮かべて、今は閉じられたドアを見やる。
「ラフティ。いい加減にしろ」
 彼の体の下でクライが、うんざりしたように顔をしかめて、声を上げた。

 エテメナンキの大祭、降臨祭の夜、彼らは二人で一晩中飲み明かし、そのままこの部屋で一緒に眠ることとなった。
 もちろん、ただ眠っただけにすぎなくて、それ以外には何もない。
 だというのにラフティは、目が覚めて、まるで共に夜を過ごした恋人同士のようにベッドの中でクライに身を寄せ、おはようのキスにしては少しばかり濃厚なくちづけを落とす。
 件の青年は、ちょうどそこへやって来た。
 間が悪かったというべきか、あるいは良すぎたというべきか。
「いいじゃないですか。ちょっとした牽制ですよ。彼、あなたに憧れて、《アサシン》に入ったのでしょう? 今朝だって、報告なんて後でもいいのに、あなたの顔を見たさに、わざわざやって来たようじゃないですか? でもきっとこれで、普通にただの隊員として接しようと、自分を律するのじゃないですか」
 ラフティは、しれっとした顔でクライに返した。
 クライは再び、顔をしかめる。
「ったく……。どこからそんな、どうでもいい情報を仕入れるんだか、おまえは……」
 低くぼやいて、邪険に彼の体を押しのけた。
「重い。いい加減、どけ」
「はいはい」
 笑いながらラフティは、今度は軽いキスを彼の額に落として身を離す。
 こんな、戯言めいたやりとりでならば、寄り添うこともくちづけることも許してくれるのにと、少しだけ恨みがましい気持ちを胸に抱きながら。
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