天使のいた午後


 どこかで、誰かが歌っている。
 この声は、ジブリールだ。
 クライは、そんなことを夢のはざまでぼんやりと思っていた。
 その人はもう、いない。だから彼女の歌声も、もう聞こえない。
 そんなことは、充分に知っていたはずなのに。けれども、彼はその歌声を彼女のものだと思った。あの懐かしく、優しく、そして慈愛の雨のような奇跡を起こす、彼女の歌だと。

+ + +

 「うわあっ! きれい!」
 川底の石の一つ一つが見分けられるほどに澄んだ水の中を、虹色に輝く魚が何匹も泳いで行くさまを見て、幼いクライは、思わず歓声を上げた。
「ああ。きれいだな。……この魚は、ライム魚といってな、焼いて食べると美味いんだぞ」
 笑ってスワンが教える。
「おじさん、うちの親父と同じこと言ってら」
 マニが、何がおかしかったのか、声を立てて笑いながら叫んだ。
「ああ。クラリスでは、この魚はなかなか手に入らなくて、ご馳走だったからな。たんと釣って、土産に持って帰ったら、きっとよろこぶぞ」
 スワンに言われて、マニは大きくうなずく。
 それは、クライが十歳の時の夏の一日だ。
 釣り道具を持って、街から少し離れた場所にある河原に遊びにやって来た。両親と、幼馴染みのマニとグラディアス、それにジブリールが一緒だ。
 当時はまだ珍しかった車を、移動のために出してくれたのは、グラディアスだった。
 彼は、マリア大公ルロイヤ五世の妾腹の公子で、体の弱い母親の療養につきあって、フラナガンが風光明媚な街として知られるようになってから建てられた、大公の別荘でくらしている。
 対してマニは、神聖クラリス帝国からやって来た大商人の息子だった。
 一介の画家の息子でしかないクライが、彼らと幼馴染みとして育ったのは、年が一緒だったこともあるが、父親同士が友人だったことが大きい。
 この夏の日だけでなく、このころの三人は、毎日のように一緒にいた。それが、三人にとっても、周囲の大人たちにとっても、当然な時代だったのだ。
 スワンの手ほどきを受けて、クライとマニ、グラディアスはそれぞれ釣り棹を手に、川の思い思いの場所に陣取ると、糸を垂れる。
 一方、クライの母のミナとジブリールの二人は、河原に腰を下ろして、そんな彼らの様子を楽しげに眺めていた。
 河原は、切り立った崖のある対岸が影を作り、時おり風が吹いて来るため、驚くほど涼しいのだった。
 その時のジブリールは、白く長い髪を後ろで一つに束ねて編み、つばの広い白い帽子と裾の長い白いワンピースに身を包んでいた。十七、八の少女の彼女が、ミナとそうして二人並んでいる姿は、仲のいい親子か、年の離れた姉妹のようでもある。
 だが、ジブリールは彼女の娘でも妹でもなく、スワン夫妻とクライにとっては、家族のような人間だった。が、一方では特別な存在でもあった。

 魚は、面白いほどたくさん釣れて、日が陰るころには、用意したバケツは、魚で一杯になった。
「そろそろ、母さんたちのところへ戻るぞ」
 スワンの号令で、クライたちは棹をかたずけ、それぞれの獲物の入ったバケツを手に、ミナとジブリールのいる河原へと戻って来た。
 河原では、二人が手回しよく、火を起こして待っていた。
「母さん、ジブリール、こんなに釣れたよ!」
 胸を張ってバケツの中身を見せるクライに、ミナとジブリールは目を見張る。
「きれいね。……まるで、たくさんの虹をつかまえたよう……」
 うっとりと呟くジブリールに、クライは少しだけ見とれた。
 光を反射して輝く水と虹色の魚が、彼女の白い髪や肌に、そして菫色の瞳に映り込み、彼女をこれ以上なく神秘的に美しく見せているのだ。
 その姿を目にして、クライはまるで初めて彼女を見つけた時のようだと考える。
 そう、四年前、最初に彼女を見つけたのは、ほかでもないクライだったのだ。当時彼ら親子がくらしていた貧しい谷間の集落の、はずれでのことだ。
 家族三人の食べるものさえろくにない状態だったが、クライはその人を助けてくれと、スワンに泣いて頼んだ。
 彼女は、その時にはろくに言葉もしゃべれず、自分の名前以外は何も覚えていなかった。
 だからだったのか、スワンは息子の懇願を受け入れて、彼女を雨露が凌げる程度でしかなかった、自分の家に置くことを承知した。
 そして一月後。奇跡は起こる。
 彼女の歌声に、谷間にはどこからともなく水があふれ出し、彼らの集落の周りを囲む大きな湖となった。
 やがて、湖のほとりに居を移したその集落の人々は、湖のもたらす実りによって豊かなくらしを手に入れ、それを伝え聞いた人々が他の土地から移り住み、たった四年でそこは小さいが豊かで美しい町となった。それが、フラナガンだ。
 そしてジブリールは、今ではその町の人々から、「聖女」と呼ばれている。
 彼女の記憶は戻らず、また彼女を探して訪ねて来る家族や友人・知人の類もなかった。それもあって、彼女はクライたちの元にとどまり、フラナガンの人々とも打ち解けて、こうして日々を送っている。「聖女」と呼ばれても、けして奢ることなく、知り合ったころのままの彼女は、誰からも愛され、尊敬されていた。
 釣った魚の何匹かは、その場で串に刺して焼かれた。芳ばしい匂いがあたりに漂い、彼らの食欲を刺激する。焼けた魚は、串ごと手に取り、そのままかぶりついた。
「美味しい」
 一口食べて、ジブリールが小さな声を上げる。
「これって、時々、お母さんが焼いたり煮たりして、出してくれるのと同じ魚ですよね」
「そうよ。……でも、こうして釣ったばかりのを、河原で直接焼いて食べると、全然違うでしょう?」
 ミナが、笑って言った。
「はい。……でも、どうしてでしょう?」
「きっと、鮮度が違うからじゃないかなあ」
 グラディアスが、少し考え、口を挟む。
「そうだな。それと、きっとこの外の空気が美味しくしてくれるんだろうな」
 スワンもうなずいて言った。
「そういえば、外でするバーベキューは、なんでだか美味いよな」
 なるほどと納得したように、マニも大きくうなずく。
「そうだね。それに、人がたくさんいる方が、美味しい気がする」
 クライも、少し考えて言った。
「ああ、それはあるな。……俺、一人でする食事ってきらい。な〜んか、不味い気がするんだもん。つまんないしさ」
「おまえは、賑やかなのが好きだものなあ。前、うちの庭で宴を開いた時、おまえ、一人で二人分ぐらいはしゃいでたよな。後で、母上が笑ってらした。アニエス家の長男は元気でいいってさ」
 マニの言葉に、グラディアスが半ばからかうように言い出した。マニは、少しだけ赤くなって、そっぽを向く。その仕草がおかしくて、クライとジブリールが同時に笑い出した。
 二人にまで笑われて、マニはちょっと口をとがらせたものの、すぐに自分も笑い出す。

 焼いた魚を、全て食べ終えるころには、あたりは黄昏の色に包まれ始めていた。遠くの空に、ぼんやりと白い月が二つ、離れて浮んでいる。
「さて。そろそろ帰るか」
 空を見上げて、スワンが言った。
 火の始末を念入りにして、残った魚をバケツごと車に積み込み、彼らもそれぞれ座席に収まる。ただ、ジブリールだけは車の傍に佇んでいた。
 彼女は、軽く空をふり仰ぐと、細い声で歌をうたい始めた。短い歌だったが、それは、この日自分たちに歓びと実りを与えてくれた、川と魚たちへの感謝の歌だった。と同時に、この川に更なる豊かさを約束する、奇跡の歌でもある。
 うたい終わると彼女は、川に向かって一礼し、やっと車に乗り込んだ。
「父さん、また釣りに連れて来てね」
 走り出した車の中で、クライはスワンに言った。
「ああ、また来よう」
「約束だよ。次も、父さんと母さんと、マニやグラディアスやジブリールも一緒に」
 うなずく父に、彼は念を押す。
「むろんだ」
 スワンも、笑ってうなずいた。

+ + +

 クライは、夢から覚めて、身を起こす。
 傍には、友人のラフティがいた。そこは、彼の部屋だ。
 神がこの世界に現れた日を祝う、降臨祭の夜――わずらわしい宴と、茶番でしかないエテメナンキ法王と、《至高天》の面々との会食の席からやっと解放されて、誘われるままにクライはラフティの部屋を訪れたのだった。
 そして、飲んでいるうちに、いつの間にか眠ってしまったのだろう。彼は、ソファに横になっていた。
「目が覚めました?」
 声と共に、ラフティに差し出された水のグラスを受け取り、中身を飲み下す。
「……誰か、歌っていなかったか?」
 尋ねる彼に、ラフティは部屋の隅を示した。
「あれでしょう」
 視線を巡らせると、そこにはきれいに装飾された篭に入った、機械仕掛けの鳥がいる。エテメナンキの司教らや、クラリスの上流階級でもてはやされている、自動人形オート・マタの一種だ。求愛者の一人からの、贈り物だという。
 実際に聞くその声は、そう悪くはないが、ジブリールのそれとはまったく違っている。だのに、それを彼女の歌声と思うとは。クライは思わず顔をしかめた。
 ラフティは、目ざとくそれに気づいたのか、尋ねて来た。
「あの鳥の声が、何か?」
「いや……。ただ、昔の夢を見ただけだ。親父もお袋も生きていて、ジブリールが一緒にいて、マニやグラディアスが俺と一緒に笑っていたころの――な」
「ああ……」
 ラフティは、納得したようにうなずく。彼もまた、知っているのだ。それがもはや、二度と戻らない時代だということを。
(結局、あの時の親父の約束は、果たされないままだったな……)
 夢の中身を反芻して、ふとクライは思う。
 あの後、スワンは仕事が忙しくなり、あんなふうに妻子やその友人を連れて、どこかへ遊びに出かけることなど、できなくなってしまった。
 そして、クライが十四の時には、おぞましい事件が起こり、ミナは死んでしまう。その死はスワンの上に影を落とし、酒びたりになった彼は体を壊して、六年後にこれまたあっけなく、この世を去った。そのころにはすでに、ジブリールは宗教組織ルーフの聖女として、彼らの家を離れてしまっている。
 クライは、小さく苦笑した。
「今こうして改めて考えると、あれは本当にあったことなんだろうかという気がするな。……なんだか、俺が勝手に夢想して作り上げた、ただの絵空事のような気がするぞ」
「私は、スワンやその奥方が生きていた時代のことを知りませんが……でも、あなたが覚えている限り、それは絵空事ではありませんよ、きっと」
 ラフティは、穏やかに言って微笑む。
 クライは、小さく肩をすくめて返すだけにとどめ、新たな酒を所望した。ラフティは何も言わずに、新しいボトルを持って来るために、踵を返す。
 その背を視線で追いながら、クライは改めて今の自分たちのことを思った。
 聖女と呼ばれたジブリールはそれゆえに命を落とし、マニは今では砂漠の大国の王だった。グラディアスは、エテメナンキの大司祭と呼ばれる地位にあり、そしてほかでもない自分は――同じエテメナンキの中にあり、《至高天》の下、汚い裏の仕事を一手に引き受ける《アサシン》の長となっている。
 あの時、彼女のかわりに自分こそが命を落とせばよかったと、心底から望んだはずの三人は、三百年もの時を経て、まだ生き長らえているのだ。生き長らえ、彼とグラディアスは、かつてジブリールの命を奪った者たちの仲間となって、世界を牛耳る一旦を担っている。
 きっと、正しいのはマニの生き方なのだろう。彼は、ジブリールの心を生かし、彼女の愛したものを守るために、砂の地に新たな王国を打ち立てた。
 だが、自分とてもあの時には、たしかに二度とこんなことを繰り返させないためにと、力を望んだはずだった。なのに、いったいどこで道を間違ったのか。
(それとも、間違えたわけではなく、これこそが俺の行く道だったと、ただそれだけのことなのか?)
 クライは、胸の中で自問する。それへ返る答えなどないことは、彼も知ってはいたけれども。
 ラフティが、新しいボトルと、水と氷を持って戻って来た。
「過去のことを、あれこれと考えて悔やんでも、しかたありませんよ。過去はけして取り返せないものですからね。思い返せば、辛くなるだけです。……とりあえず、飲んでもう少し、建設的な方向を見ることにしませんか」
「建設的、ねぇ」
「ええ。たとえば、私とあなたのこととか」
 笑顔でしらじらしく言われて、クライは思わず顔をしかめる。
「それのどこが、建設的なんだ。だいたい、そういう話をしたいなら、他の奴としろ」
「相変わらず、つれないですねぇ」
 ラフティは、くすくすと笑いながら、手早く水割りを作って差し出す。それを受け取り、クライは肩をすくめて口元に運んだ。
 建設的、な話の内容はともかく、過去を悔やみ続けてもどうにもならないのはたしかだと、彼も認めて、もう少し別の方向へ頭を切り替えることにする。夜はまだ長く、闇は深いのだから、と――。
2005.8/初稿






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